梅が淡い香りと共に開いた。
鼻を擽る甘やかなそれを胸一杯に吸い込むと、有紀は一歩足を踏み出してみた。
固い地面が足を支えている。
暖かくそして涼しげな風が簡易に結い上げられた髪を揺らした。
振り返ると人の気配のしない有紀の「我が家」が静かに立っていた。
鳳珠は数日帰ってきていなかった。
公子同士の醜い争いは朝廷をも巻き込み混乱を極めていた。そんな中、決して信条に悖る政をしないという理由で鳳珠は戸部尚書に、黎深は吏部尚書へと据えられていたのだ。当たり前のように忙しい。
貴陽には不穏な空気が漂い始め、最低限家がまわせる家人だけ残し他は黄州に下がらせていた。
だから陰から鳳珠を支えていたのは少数の家人と、有紀だった。
とは言っても有紀もとてもではないが大っぴらにはいえない方法で鳳珠の傍にいたわけだが、新年を迎えるに当たり疑問を抱いたのだ。
自分がいるのはここでいいのだろうか、と。
悩みに悩み抜き、有紀は折りよく訪ねてくれた百合姫にのみ相談をしてある決断をした。
その決断はもしかすると鳳珠に家族の縁を切られてしまうかも知れないことだった。けれど、やはり今の有紀にはその選択肢しかなかったのだ。
加えて、つい先日忙しさを理由にして食事と睡眠を怠った鳳珠と喧嘩をした有紀は不意打ちの形ではあったが鳳珠を投げ飛ばし、怒っていたことも要因の一つである。
「ああ、有紀! 間に合ってよかった」
屋敷に背を向けて歩きだそうとした瞬間懐かしい声がかかった。
「百合姫様」
「間に合ってよかったわ。渡したい物があるの」
慌てた様子の百合姫が懐の中から差し出した小さな袋を受け取る。視線に促されて中を覗くと木簡が入っていた。
苦笑に近い微笑を浮かべた百合姫の目に促されて中身を取り出すと手に取った。
見慣れた、というほど見たことがあるわけでも見慣れぬと言うほど見たことがないわけではないそれの裏書きは、有紀には見たこともない絵面だった。
「百合姫様……これって…」
けれど見たことのない有紀でも知識として知っているものだ。
桐と竹、鳳凰と麒麟が見事に合わさった意匠。
「……私、紅家直系じゃ、ないです…よ?」
「玖琅がいつも黎深に構ってくれるお礼だって」
数年前に話した『全国津々浦々点心修行』のことを聞いた百合が玖琅に話したらしい。
紅州で黎深の、紅家当主名代として腕を振るっている黎深の、そして邵可の弟である。
いつぞやに有紀も会ったことがあった。年を聞いてみると若いのに、どこか年不相応に落ち着いているというか、大貴族の重鎮という言葉が見事に当てはまった。
「それに…私の方が黎深様に構っていただいていましたけど」
「そうかしら?」
心底不思議と言わんばかりの顔をしている有紀に百合姫は笑いかけると、そっとその髪を撫でた。
「今日の決断を後悔しないでね」
「……はい」
「絶対帰ってくると約束して?」
「おいしい点心を見つけて百合姫様に食べていただきたいです」
「あら。じゃあ黎深と絳攸に自慢しなきゃね」
いたずらな笑みを浮かべてウインクを送る百合姫につられて有紀は強ばっていた表情をゆるめて、百合姫の見慣れた笑顔を見せた。
「戻ってきたらきちんと仲直りするのよ?」
「…考えておきます」
ころころと笑顔を変えて、送り出してくれた百合姫に一礼すると有紀は前を見て歩きだした。
自分の行動は『逃げ』としか見られないだろう。
けれど、今このときにしか機会がない気がする。今行かないと、もう二度と機会は訪れない。
有紀はもう一度貴陽を振り返った。
「―――行ってきます……」
『お帰りなさい』の言葉を胸に抱いて。
なま暖かい風が有紀の頬を撫でた。
***
うちの子は悩まなくていいことで悩んで、流されて後悔して悩んで。
さあ、この後彼女を待ち受ける物は…!
孔雀男です
いまいちなのでたぶんサイトには行かないです。
[2回]
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