悪夢を視る。
悪夢、と名付けるにはあまりにも名にそぐわない夢ではあるが、彼女にとってはその夢を見たあとの気分は最悪なのであるからして、悪夢と呼ぶべきものだと思っている。
「――っ」
声にならない叫び声で目が覚めた彼女は汗ばむ手で褥を握り締めた。
荒い呼吸を整えると、徐々に瞼を押し上げた。恐怖に打ち勝つためにそっと、勇気を持ってゆっくり。
予想では目の前にあるのは時間帯を現す、窓越しに見える空模様のはずだった。
けれど目の前にあったのは黒くてモコモコした、毛むくじゃらのもの。
ゆっくりと上下に動くそれは生きている証。
よくよく地面を、辺りを見渡してみれば臥室ではなくて体を休めるために腰を降ろした地面で背後には里木。そして目の前に居るのは異様に大きい熊。
褥だと思い掴んだそれは、見慣れぬ誰かの上着。大きさと形から考察するに男ものだった。どう考えても香寧が忠誠を誓った者の上着ではない。
質素で、けれどとても丈夫な生地。しっかりとした作り。
「……起きたか?」
心地よい低くくなりかけ声が聞こえた。香寧は思わず回りを見渡すが熊しか居ない。
じっと熊を凝視すると、相手も香寧を凝視していた。
しばしの間、互いに見合っていた。瞬きの間か、又は数刻か。長い時にも感じられたが、飽きもせずに見続けると香寧はふっと笑った。
呆気に取られたように熊が瞬く。
「この上着の主がお前か」
「……」
返事がなかった。香寧は尚も続けた。
「お前、半獣だろう?」
熊は答えなかった。だが、あからさまに体を強張らせた熊の様子から答えは明白だった。
香寧がうっかりと林で眠っていたのは雁の隣国である慶東国。
変わり者の"延"がいる雁とは違い(雁でもないとはいいきれないが)、慶では半獣は白眼視されている。
そもそも十二国中で半獣が堂々と獣の姿で手歩いても侮蔑の視線を集めない国はない。
だから熊の反応は当たり前だった。
香寧は今度はクツクツと体をよじらせて笑った。不思議そうにする熊の気配に香寧は笑い交じりの声で「すまない」と謝した。
「名乗らなくてすまん。私は香寧という。雁の者だ」
「……桓タイだ」
「そうか桓タイか。半獣かと聞いたのに特に意味はない。気にするな」
名乗り返す熊……桓タイの性格に感心しながら香寧は桓タイへと近づき、膝をついた。
おもむろに手を伸ばすと何をされるのかと、じっと見られる。
手負いの獣のような反応に苦笑を浮かべながら香寧はそっと頭の毛並みを撫でた。
「上着、すまなかったな」
「……」
気持ちよさそうに目を細める桓タイに香寧も珍しく優しく笑う。それは雁の香寧を知るものならば我が目を疑うものではあるが。
「ここは慶のどこに当たるんだ?」
「……麦州だ」
「そうか」
西の空は茜色へと変わっている。別段里木の下で過ごしたところで困るわけではないがここは、偶然出会った熊こと桓タイに礼でもするかと思い当たった。
「宿に案内してもらえないか?」
「…宿?」
「騎獣も泊まれると尚のこといい。今は居ないが、そろそろ戻ってくるからな」
「……わかった」
礼を重ねて上着を返すと熊はのっそりと起き上がり、木の影へと向かった。暫くしてさっぱりとした顔立ちの少年が表れた。
改めて香寧は右手を差し出した。握り返された手のひらは見かけの小綺麗さに反してごつごつとなりかけてた。この手のひらには覚えがある。
「桓タイ、私はこう見えても雁で、下っ端だが剣を持っているんだが」
「……道理で」
桓タイも香寧の手のひらの堅さに少し気づいていたようだ。香寧はほんの少し気まぐれを起こした。この少年はよい青年へと育つだろうと思ったからかもしれないし、柄にもなく見た悪夢から温もりを与えてくれた少年だからか。
「強くなりたいなら少し教えてやるぞ?」
その時に少し躊躇した少年は、暫くして真剣な表情で二本の木刀を手に戻ってきた。
香寧は珍しく気を回し、旅で慶に寄るときは麦州を立ち寄るようになった。
桓タイがやがて麦州州師へと入隊するまで二人のこの関係は続いたが、その後互いに見えることはなくなる人間。再会するのは、赤楽二年。和州にて、であった。
(熊の親切)
熊といえばやっぱり桓タイ?
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だがしずくが毛並みも凝視された!