それ以外のなにものも含まない眼差しに有紀は言葉に窮した。その双眸は宝石のように輝き、光りの矢のように撃ち抜く。
話のついでのようなものだった。いつものようにお互いに意見を交換しあう一時の合間。
「有紀はなにがしたいんだ?」
話のついでのような問い掛け。ささやかな好奇心よりもその場の流れにより自然と出た言葉だった。
だが、口に出した途端に絳攸はしまった、と思い顔を曇らせた。
目の前で茶を飲んでいた有紀が絶句していたのだ。自分と一つしか違わないこの少女は、年の割に聡明である。
“オレは官吏になって、あの人のおそばに”
会うたびに猛勉強していた彼に理由を尋ねた有紀に絳攸の夢を話すと彼女は柔らかく微笑んだのだ。
“じゃあ、わたしもいっしょにやる”
付き合わなくてもいいと言ったものの、女官になるにはこれぐらいの勉強が必要だから気にしなくてもいいと言われ 気がつくと会うたびに自分の進み具合いを互いに報告している。
有紀は数少ない選択肢から“女官”という選択肢があることに気付いている。《なるもの》の一つは女官。
だが、絳攸は“なりたい”ものは官吏だが、“したいこと”は《黎深の役に立つこと》
したいことが限られている有紀は今はただひたすらに知識を吸収するしかなかった。
「あー……有紀?」
「……うん」
「気にしないでくれ」
絳攸の言葉に、目を反らしていた現実に気付かされた有紀は今更その言葉は聞けなかった。
「ううん。考えなきゃいけないもんね……“したいこと”」
まだ10歳にもなっていない子供の戯言。そう思うには彼の言葉は少しだけ重かった。
この国で《瑠川有紀》ではなくて、《黄有紀》として生きていくには、まず恥をかかない程度には教養が必要である。自分の『家族』となってくれた鳳珠に恥をかかせない為に、そして自分の為に。
勉学以外にしたいこと。それは音楽を抜きにすると、具体的には見つからなかった。官吏になって鳳珠の手足とまでいかずとも指先ぐらいになれたら、と思わないことはない。けれど、それを実現するには男にならないといけない。
考え込んでしまった有紀は悩みを浮かべた顔のまま帰宅し、鳳珠や家令を筆頭とする家人達に大いに心配された。
悩みに悩み抜き、鳳珠に相談すると彼は優しく微笑み、そっと指で有紀の髪を梳いた。
鳳珠には劣るが艶やかな黒い髪がさらさらと流れ落ち、優しく有紀の頬を撫でる。
「私に気にすることなく有紀のしたいことをすればいい」
「私の、したいこと……」
何がしたいのか、思いつかない有紀は流れる髪の感触に瞼を下ろした。
ゆったりとした空気が室内に流れていた。気を利かせた 家人が焚いた香は気を落ち着かせる優しげな薫りで、もやもやとしていた有紀の心の中を静かに晴らせていく。
「今、お前がやりたいことはなんだ?」
ゆったりと優しく、けれど答えをそっと引き出すような鳳珠の声に有紀はいくつかのものを脳裏に描いた。
「……楽器をもっと上手に鳴らしたいです」
「それならば時間をかけて、ゆっくりやればいい」
眸を開いて顔を上げると 、鳳珠の視線とかち合った。優しげな穏やかな微笑みを浮かべている彼はこれ以上ないくらい麗しく暖かかった。
とりあえずは落ち着いたが、《答え》がでていないことに、有紀は見て見ぬ振りができなかった。
だからとりあえず日々考え続けた。
皆に心配されようと考え続けた。
考え続ける姿に鳳珠が悩み、悠舜が心配し、黎深が馬鹿にしていようと。
黎深の何気ない言葉に絳攸が怯えていようとも。
そんな日々が続いて何日か経った、鳳珠の公休日。やってきた黎深は無言で有紀に何かを包みごと押しつけた。
いつものように家人を押し退けて自分の屋敷のように振る舞う黎深は、有紀に包みを押しつけるといつものように客室へとさっさと歩いていった。
勿論透視能力なんか持っていない有紀は何なのかわからずに包みを持ち上げてみるが、包みの中で何かがゴロリと転がったのを感じ取り、あわてて包みを両手でしっかりと持った。
あわてて追いかけて彼の顔を見上げるが、角度的に黎深の表情は扇に隠れて見えなかった。
「れ、黎深さま?」
無言で室内に入る彼に問いかけたところで返事は期待していなかったが、やはりないものは寂しい。
椅子に腰掛ける黎深を追いかけたが、彼はいつもしていたように卓子をぺしぺしと扇で叩いた。
それは黎深の「お茶」という無言の催促であることを知っている(というよりも教えられた)有紀は、包みを丁寧に置くとお茶を淹れはじめた。
湯呑みの中で茶葉が美しく開く様を見ていると、ペシリという痛そうな痛くなさそうな音がした。
いったいなにを叩いたのだろうかと思い、有紀が振り向くと想像だにしなかった光景が繰り広げられていて有紀は空いた口が塞がらなかった。
「お茶を淹れていただくのに言葉もなしとは失礼にも程があるでしょう」
「だが、こいつは怒っていないぞ」
「そういう問題ではありません」
後からゆっくりと来た悠舜が黎深の扇を奪い、彼の頭をポコポコと叩いていた。
黎深に渡された包みが気になり、悠舜に気づいていなかったことに思い当たった有紀はあわてた。
ついでに自分のことで黎深を怒っている悠舜を止めなければいけない。
「悠舜さま、私は気にしていませんから黎深さまを怒らないでください」
椅子から立ち上がりかけていた彼をいさめるためにのばした手を取った人物がいた。それは悠舜ではなくて、傍観に徹している鳳珠であった。
「鳳珠さま?」
「止めなくていい」
「…でも」
なおも言い募ろうとした有紀は黎深の顔を見て口を噤んだ。
黎深の顔が、『この上なくうれしい』と語っていた。
邵可の屋敷で見る黎深の表情と酷似している。
しばらく二人で悠舜と黎深のやりとりを見ていたが、何気なく手に取ったお茶が冷めていることに気づいた。
「……お茶を淹れなおしてきます」
「茶請けを持ってくるように言っておいてくれるか?」
「はい」
ついでに黎深から貰った包みの検分をしてしまえ。と思い当たると有紀は喧嘩の仲裁をやめ包みを手に室外へとでた。
廊下に控えていた家人に包みを預け、お茶の淹れ直しを頼む。
すぐに廊下は冷えるから室内へと後戻りさせられた。そのとき包みの中身を一つ持たせて、背を押す家人の言葉が有紀の心を惹いた。
「鳳珠さま」
手ぶらですぐに戻ってきた有紀に目をやった鳳珠は、説教を始めている悠舜とうれしそうに怒られている黎深から離れた位置に移動した。
鳳珠の元に移動した有紀は手に持つ橙色の丸いものをきゅっと握りしめた。
ふわりと柑橘の香りが漂う。
鳳珠はきゅっと眉を寄せる有紀を見下ろした。どこか見覚えのある表情に彼も麗しい顔を心配そうに歪める。
小さな体で何かを精一杯受け止め、一生懸命前に進もうとしている。
鳳珠は身を屈めるとゆっくり有紀の前髪を浚った。
細い指先から黒髪がサラサラとこぼれ落ちる様を見るのがここ最近の彼の癒しでもあった。
「どうした」
「黎深さまと邵可さまの生まれ育った紅州の名産は、みかんなんですか?」
「……みかんになりそうだな」
意味深な彼の言葉に有紀は首を捻った。
「それがどうした?」
「八州にはその土地独自のものがたくさんあるんですよね」
鳳珠は小さく頷いた。
有紀は言葉を紡ごうと口を開くが一瞬躊躇った。これを口にすれば、彼らに呆れられるに決まっている。
路頭に迷うのを確実だった自分を拾ってくれた優しい彼に対する裏切りのようにも感じた。
言葉にするのを躊躇する有紀を見て説教をしていた悠舜もされていた黎深も先ほどまでのやりとりをやめていた。
鳳珠は髪をいじっていた指を有紀の頬に静かに添えた。
そうしていつの間にかうつむいていた有紀の顔をゆっくりと上げ、鳳珠の視線と合わせた。
「何でもいい。思ったことを言いなさい。私は、お前を見捨てようなどと思わん」
「鳳珠さま…」
「私たちは『家族』だろう?」
いつも以上に優しい微笑をたたえる鳳珠に有紀は迷いながらも言葉を続けた。
自分が"したい"と思ったことに鳳珠がその麗しい顔を歪めることのないようにと。
「実は……」
美しい景色が見える室で、有紀は絳攸と恒例の勉強会のようなものをしていた。
暖かな日差しに眠りの世界に行く誘いを賢明に断っていた有紀は、先日の話を絳攸に打ち明けてみた。
「全国津々浦々天心修行をしたい、だって?!」
絳攸の反応が一番普通であった。
その驚き方に有紀はその日のまどろみ行きの片道切符を落としてしまった。
彼が本気かと問わんばかりに有紀を見るので有紀は小さく頷いた。
「本気だよ」
「……お前の養い親はなんて言った?」
「『本気で考えているならば、身を守る術を得てからにしなさい。私を倒せるときが来たら許そう』」
「…本気か?」
有紀はそのとき知ったが鳳珠はなんと気功の達人だったらしい。
前の自分は運動神経に優れているとはいえなかったで、武術が覚えられてお得な気持ちになったのだった。
「黎深さまはね、『おいしい天心を邵可さまたちにも食べさせて差し上げたいです』って言ったら」
「……『今すぐにでも行ってこい』…か?」
一字一句違わずに言った絳攸に有紀は思わず拍手を送った。
だが、絳攸は心配そうな面もちでじっと有紀をみた。
思えばこの小さな友人は自分の何気ない一言でこんな無謀なことを考えてしまった。しかも、普通は周りは止めなければ行けないのに誰一人として止めていないようだった。
さすが黎深さまのご友人たちだと心の片隅では心配しつつも、どこかおかしくないだろうかとつっこみをいれていた。
やはり、ここは自分が止めるべきだろうと深く深呼吸をして有紀を改めて見ると、彼女はこの上なく穏やかな微笑を浮かべていた。
思わず絳攸は口を噤む。
「でもね、本当はね。彩雲国中を見てみたいの。軒の中からではなくて、自分の足で。この美しい国を自分の目に焼き付けたいの」
「……」
その言葉にどう返せばよいのか絳攸はわからなかった。
確実に予想できたのは、二人で武術の修行に励むときが来るかもしれないということだけだった。
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字数足らず!結構メールの字数ぎりぎりまで書きました。
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