デフォルト名:黄有紀
いつからか、有紀には譲れないものが増えていっていった。それは、食事の際の「いただきます」と「ごちそうさま」だったり、寝る前にする挨拶だったり。朝会ったら必ず「おはようございます」の挨拶だったりと些細なことばかりであった。
こればかりは相手が誰であろうと譲れないのだと、有紀は満面の笑みで言う。
「黎深さま、百合さま、お帰りなさい」
その日は貴陽紅家別邸に居る時だった。朝から絳攸を訪ねていたが、黎深と百合は外出中ということで二人でずっと過ごしていた。
八つ時に近づいた時、家人達が「ご当主様と奥方様がお帰りです」と絳攸と有紀に告げに来た。絳攸は出迎えるべきか、それとも室で待つべきかと悩んだが、有紀は話を聞くなり腰を上げて絳攸の腕を引っ張って玄関まで向かった。
軒から下りてきた二人に向かって笑みを浮かべて出迎えると絳攸もそれに倣ってぎこちない笑みを浮かべる。
「お、おかえりなさい。黎深様、百合さん」
「お迎えありがとう。ただいま、有紀さん絳攸」
「……」
笑みを浮かべて有紀と絳攸の頭を撫でた百合とは反対に黎深は、口元を扇で隠して目線だけを二人に送って素通りしようとした。
そのことに百合は寂しげな笑みを浮かべ、絳攸も顔を翳らせる。
その中で、有紀一人だけが表情を変えずに同じ笑みを浮かべて、黎深の袖を引いた。
「……なんだ」
「おかえりなさい、黎深さま」
「それはさっき聞いた」
「おかえりなさい」
「……」
「おかえりなさい」
「…………。た、ただいま」
なんとも形容しがたい表情でそう言った黎深に有紀は満足そうに頷くと、袖から手を離した。
すたすたと無言で遠のく黎深の後ろ姿と、笑顔が変わらない有紀を見比べた絳攸と百合は感心したように深い息をついた。
「流石、有紀さんだよね。あの、黎深に『ただいま』を言わせるなんて」
「そうですか?」
「ああ、俺も有紀がいないときは聞いたことがない」
「でも最初は大変だったんですよ?」
昔を思い出すように、有紀は記憶を掘り返す。
悠舜が茶州に向かう前。鳳珠が黎深と悠舜をたまに連れて帰るようになった頃だった。
「おかえりなさい、鳳珠さま。悠舜さま、黎深さまこんばんは」
「ただいま、有紀。いい子にしていたか?」
「こんばんは、有紀さん。お久しぶりです」
鳳珠、悠舜と順に撫でられた有紀はくすぐったそうに笑みを浮かべた。唯一黎深だけが、いつものように扇手で弄びながら傲岸不遜な笑みを浮かべて。
「ふん、来てやったぞ」
「黎深さま」
「なんだ」
「こんばんは」
「……さっきも聞いた」
「黎深さま、こんばんは」
「……」
にこにこと「黎深さま、こんばんは」と言い続ける有紀と黙り続ける黎深のやり取りに悠舜は不思議そうに鳳珠を見上げた。彼は分かっているように頷いて、悠舜に説明を始めた。
「有紀と決めごとをしたんだ」
「決めごと?」
「ああ、できる限り食事は二人で取ること。挨拶は必ずして、返すこと」
「……なるほど。だから『こんばんは』なんですね」
天つ才の持ち主でも、有紀の意図は理解できないらしい。
玄関先で、何度も「こんばんは」と言われ続け、やかましいと振り払うと悠舜に怒られる為に何もできず。困惑の表情は意地でも見せまいと無表情で固まっている友人に悠舜は助け舟を出すことにした。
「黎深」
「……なんだ」
「夜の挨拶はなんでしたか?」
「…………」
「黎深さま」
「…………こ、こ、こんばんは……」
「はい、こんばんは。ようこそいらっしゃいました。今日はいらっしゃると聞いていたので既に準備は整っていますよ」
ようやく「こんばんは」以外の言葉が紡がれ、いつものお出迎えと同じ形になった。
それ以来、鳳珠邸を訪れた者は玄関先で有紀と挨拶ができないと入れてもらえなくなった。主にいつも同じことを繰り返すのは黎深だけであったが。
その時の黎深と有紀の押し問答を聞いた邵可は面白がって同じことを黎深に強要し始めることを、その場の誰も知らなかった。
そんな話を有紀から聞いて、百合は「さすが、有紀さん! 私もこれから始めようかしら?」とにこにこと呟いていた。
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有紀だったらこれくらい平気でやるかなと思いついて速攻書きました。
挨拶は基本ですよね!
原作沿いが始まるころくらいには黎深も平然と返事を返すと面白いですね。周りは「紅尚書が挨拶を……!」とか戦慄が走る気がします。
[6回]
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