デフォルト名:史(ふみ)
史は谷嶋(やしま)という武士の家の三人娘の二番目の娘に生まれた。娘ばかりの谷嶋家は昔から武芸に秀でた一族だったが生まれたのは史を含めた三人の姫のみ。
姉は早くに婿を迎え、谷嶋の家を守っていたが、家を継ぐ必要がなかった史は同じ年に生まれた小島家の姫と共に家臣に紛れて武芸を磨いていた。
小島の姫は綾といい、年の離れた兄が一人居た。
豪胆で、不器用で大雑把な彼は弥太郎といい、史は兄と慕い綾と共に遊んでもらいたくて小島の家に入り浸っていた。
しかし、そんな毎日も弥太郎が嫁御を迎えてからは、遠い彼方に追いやられていた。
「毘沙門天の御使いさま?」
「ええ。白き光より出でて、鬼若殿を窮地より救ったと」
「で、殿が毘沙門天の御使いだとおっしゃったのね」
綾姫は優しげな笑みを浮かべてそっと顎を引いた。殿……上杉景虎の命が危うかったが、それを異界の娘が救ったという奇妙な出来事は殿の命が助かったという大事の前には小さな出来事のようであった。
竹馬の友とも呼べるこの姫の秘めたる想いを知っている史は綾姫の喜びが我が事のように嬉しきことだった。
「で、綾は如何様に?」
「殿から御世話を仰せつかったので、姫に仕えます。そこで、史に御願いしたいことがありまして」
「私に?」
しっかり者と評判の小島の姫が、幼馴染みとはいえ、史に改まって頼み事をするとは余程のことだと思いそっと背筋を伸ばし彼女の眸を見つめた。
「兄上の目附を御願いしたいのです」
「…………」
「史?」
「…………嫌です」
「駄目です。聞きません」
「小島の家の事を谷嶋の私が口を出すのはおかしなことでしょう。殿も御当主殿も御許しになる筈が」
機嫌を損ねたように庭へと顔を向けた史に綾姫はくすくすと小さな笑みを浮かべる。まるでその態度は予想通りであったと言わんばかりで。
「殿からは御許しを頂いています。兄上は」
その先は聞かずとも史でも分かった。小島弥太郎が上杉景虎のそのような些末な指示を拒否することなどない。「殿の御命令とあらば」二つ返事で御意と返すのだろう。
「綾っ!!」
「いい加減に、結末を付けろということですよ。史」
「結末など……」
史はぐっと言葉を噛み締めて、視線を遠くにやりながらそっと目を伏せた。
幾年、幾星霜経とうとも史の脳裏には彼の方と細君の幸せな営みを思い浮かべることができた。
分かっていた。彼の方が史をそのように見ることなどないということを。細君が身を隠した後もその二人の姿が目蓋の裏に焼き付いたまま離れなかった。
その場に収まろうと思ったことなど一度もない。だからこそ、あの晴れ空の下、祝儀を祝福したあの日に結末などついていた。
けれど、想うことだけは赦して貰いたかった。
だが、結末を付けろと云うのならば史が取るべきは唯一つだけだった。
そっと目蓋を震わせながら視界を広げると、綾の眼差しを受け止めた。
すっと息を吸い込み、胸に空気を染み込ませる。これ以上無様姿は誰にも晒せない。
「分かりました。綾が御遣い様に御仕え申上げる間、谷嶋の史が小島の御当主様の御世話を仰せつかります」
決意の光を浮かべた史の眸に驚きに目を見張った綾姫の姿が映っていた。
綾姫と御館の思惑とは全く異なった方向へと進み始めた事を知るものは誰も存在しなかった。
***
『二世の契り』より弥太郎夢設定でした。
弥太郎好きだ!!となった割には何故かこんな話。
綾姫の幼馴染みで弥太郎が小さな頃から好き。
妹としか見られていないことを理解しながら、遠くで眺めているので満足している。
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