先日も自分がわざわざこの得体の知れない少女を町中で拾い、お屋敷まで連れてきた。
そもそも、自分はこの家に仕えるが、全く関係のないしかも自分の行動に責任の持てない人間の面倒を見てやる義理は微塵もない。
だが、主人であり、いのちの恩人でもあり、"静蘭"の全てである彼らに頼まれたことは断ることはできないのだ。
『静蘭、この間から黎深と一緒に来ている女の子を覚えているかい?』
始まりは、邵可様の一言だった。何気ない会話だったが、どう考えてもその後の考えに簡単に結びつく。
「……はい。お嬢様がいたく懐いていらっしゃります」
この屋敷のただ一人の子供は体の弱い幼子一人。お二人の宝物である秀麗様。
誰にでも笑顔を向ける幼子だが、彼女には特に懐いている。
「有紀さんがね、最近街を出歩くようになったらしいんだ」
「……それが?」
訊き返すと、邵可様ではなく奥様が扇を広げ扇ぎながら答えた。
「わざわざ図体のでかい三人をつれてこんでも有紀を連れてこれるのじゃ。静蘭、ちと連れてこい」
「……は?」
そういえば奥様も妙にあの少女を気に入っていたようだった。奥様はそれ以上は続けずに、邵可様をニヤリと見た。
「いくら治安が悪くないとはいえ、女の子が一人で出歩くのは危ないのは静蘭もわかるね?」
「……ですが、黎深さまも影をつけておられるのではないですか?」
だったら自分がそんな面倒をせずにすむ。
けれど、それを言った途端に邵可様は何とも言えない色を顔に浮かべ、奥方は馬鹿にしたように笑った。
「お主、馬鹿よのぅ。なあ、背の君」
「うーん……。ともかく、秀麗はあまり外に出られないだろう?その秀麗に少し年上だけど、頼りになれる友人を作らせてあげたいんだ」
「妾の大切な秀麗の為じゃ。協力せい」
それを言われると、是以外の答えなど存在しない。
「静蘭。彼は『シセイラン』だ。だから、『静蘭』と同じ年の子と仲良くすることもできるのにね」
「それに気づいておらんから静蘭は馬鹿なのじゃ」
薔君の言いように邵可は微笑のみにとどめた。
彼女が一体何を考えているのか、自分には関係ないが、自分に面倒が来るならば鬱陶しいもの以外何者でもない。
けれど、宮の中で不快に思っていた人物のような嫌悪感は浮かばず、代わりにどこか懐かしい感覚を覚えることには目を瞑る。
どろどろと目に見えない何かが渦巻く狭い箱庭で、縋っていた小さな光に抱いた感情に似る。
夕暮れ時。街を歩く人々は夕餉の支度に追われ忙しない。
道行く人々が足早に通り過ぎ、路の端では遊び疲れた子供たちが別れを互いに告げている。
そんな人混みの中でも簡単に見つけることのできる黒い髪。
美しい着物を纏い、複雑ではなく、軽めに施された髪飾り。
特に整っているわけではない十人並みの容姿も頓着せずに、精一杯目の前にあるものを掴もうと手を伸ばしている。
手を伸ばすのに掴むことを躊躇する臆病さ、掴んだ後に相手を気にする頼りなさ。
けれど、相手の顔色をうかがわずに振りまく明るくて柔らかい笑顔。
それらが、自分の中に大切にしまい込んだ優しいあたたかな記憶と重なる。
「…有紀さん」
声をかけられれば、自分の名前であれば振り返る。淡い、薄緑の着物の上に黒髪が踊る。
踊り終えた髪が肩に戻ると同時に小さな黒い眸に銀の髪を持つ無表情な顔が浮かぶ。
「静蘭さん」
数歩離れていたとしても、彼女は淡い笑顔を浮かべて近寄る。はじめの頃は戸惑っていたのに気づくと彼女は、戸惑うことなく自分と接するようになった。
「秀麗ちゃん、今日は元気なんですね」
「……そうです」
歩き始める自分の横を出遅れて歩き始める。まるで当然のように肩を並べて歩く彼女は、『静蘭』と気後れなく会話をする。
今日は公休日でないために、奥様やお嬢様はこの少女を旦那様が帰っていらっしゃるまで引き留めるだろう。そのさいの紅家の家人の厭そうな顔が目に浮かぶようだ。彩七家筆頭名家の一つとはいえ本家筋以外の人間で賢いものは多くないらしい。
「あ、静蘭さん見てください」
喜怒哀楽のうちの二つを素直に出す彼女はそれに従ってか嬉しそうに声を弾ませた。興奮しているのか、人の袖を遠慮なしに掴み軽く引っ張っている。
何故かそのことに不快感を抱くことなく素直に彼女が指さす方を見れば、思わず目を疑った。気づけば街の人々の大部分が同じようにそれに見惚れていた。
「怖いくらい、綺麗ですね」
雲一つない、茜空。橙色に染まる太陽を遮るものは何一つなく、彼は勝ち誇るように己の色を見せつける。
そうして辺り一面をも己一色に染めあげる。なんて、傲慢で美しいのか。
ふと隣を見ると、先ほどまではしゃいでいた彼女は自分の腕を小さく握っていた。
普段なら他人の腕を握るということはしないのに、一体何に不安を感じているのだろうか。黒い二つの眸が不安に陰る。
自分の腕を握り小さな手の上から重ねてそっと握るとようやく彼女は自分の腕を握っていたことに気づいたらしい。
慌てて離そうとするのを握った手で制すると彼女は困ったように眉を八の字にした。
「この時間帯は逢魔が時と言うんです」
「おうまがとき?」
「普段は目に見えない悪いものが行き来するんです。…綺麗な夕暮れなんですけど」
「……それなら」
気づいたときには口から言葉がでていた。
「二人で居れば怖くないでしょう?」
(曇りなき夕暮れ)
偽静蘭注意報
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だからきのう、紅は会話しなかったよ。